お相撲さんがつくった温泉宿

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大正12年。大阪相撲の十両力士だった山口県出身玉椿関が、引退後、ふるさと川棚の相撲文化への貢献と地域観光の活性化のためにと創業したのが「玉椿旅館」です。

創業当初は相撲一行の常宿で、客室には横綱の名を冠して時には本人を招いてもてなしました。特に、双葉山関や玉錦関とは親交が深かったようです。

旅館の拡大とともに、初代横綱・明石にまでさかのぼって客室を増やしました。そんな増築の繰り返しが迷路のような間取りをつくったりと、歴史の小話がたくさんあるのも、当館のおもしろさです。

館内では、力士たちとの写真や手形など、明治・大正の大相撲にまつわる品々をご覧いただけます

小兵なれど、志は大きく。創業者 玉椿関

相撲03

明治19年、山口県下関市豊浦町生まれ。本名、藤井光太郎(ふじいみつたろう)。

土地相撲で身体をならし、力士となったのは数え18の歳(明治35年頃)。大阪相撲にその名を残したのは、明治44年2月場所から。湊部屋の所属で、大正2年5月場所に新十両となりました。大正9年5月場所を最後に引退。故郷である川棚に戻り、地元の相撲文化・観光の発展のために、玉椿旅館の経営をはじめました。

業界を退いたのちも相撲への情熱は衰えることなく、県相撲協会会長、アマチュア相撲の日本相撲連盟顧問、日本相撲協会目代を就任。生涯を通してプロアマ問わず相撲文化の発展に尽力しました。昭和40年3月に79歳で他界。相撲文化だけでなく、川棚温泉の観光事業開発に大変熱心に取り組んだと聞いています

100年の物語をつむいで

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創業当初、湯治場として栄えていた川棚温泉で、館内に内湯を備えた旅館は玉椿が初めてだったそうです。

巡業の宿として華やいだ時代には、ひたすら増改築を繰り返し、旅館という空間において重要視される庭という庭をほとんどなくしてしまいました。昭和中期、消防法の改定により、3階部分を減築。建物の老朽化を受けて、2020年1月~3月にかけて1階部分の大修繕を行いました。同じくして、痛みの激しかった客室「谷風」を泣く泣く減築しましたが、「谷風」跡地には、その名から「山と山の間に風が流れるような、そんな自然な心地よさのある場所に」と、小さな庭をつくりました。

100年の旅館の経験から、少しの不便が人の心を優しくしてくれることを知っています。客室は、水回りなど最小の設備を整えるのみとし、基本的には大正時代の趣をそのままに残しています。

建具や欄間の繊細なほどこしは、創業当初の客人であった力士たちや大相撲に対する敬意のあらわれです。ふるい旅館ではありますが、100年の歴史の上に生まれたたくさんの物語がひとつひとつ脈となって、大きな空間を息づかせてくれていると信じています